映画『モンゴル』から見るモンゴル帝国とチンギス・カン

1200年代の中東地域最大の帝国だった!

チンギス・カン・生涯1

ではここからそんなモンゴル帝国を創り上げたといってもおかしくない英雄『チンギス・カン』について書いていこう。

名前の呼び方には諸説あるが、今回は『チンギス・カン』と統一して勧めていくので、予めご了承願いたい。

まずは簡単に書いておく。

大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争をしていたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに至る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基礎を築き上げた、まさに英雄の中の英雄。

死後その定刻は百数十年を経て解体されるが、その影響は中央ユーラシアにおいて生きつづけ、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国であるモンゴルにおいては紙となり、現在のモンゴル国において国家創造の英雄としてあがめられている。

英雄というのは死後、神のように崇められることもあるがチンギス・カンはまさにそのとおりだろう。これほどの英雄譚をたった一代で築き上げたとなれば伝説と呼ぶにふさわしい。

ではチンギス・カンとはどんな生涯を生きていたのか、そこを見ていこう。

「黄金の氏族」と呼ばれた一族とは

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生涯

チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。

チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノとその妻なるコアイ・マラルであるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

これだけでも、チンギス・カンが神の血族を匂わせるような文章で、いかにこれを記した文人が彼を崇めていたということがよく分かる。そんなことは無いと思っても、文章というのは思想を移しやすいもののため、多少の偏りが出てしまうのは仕方ない。さて、話を戻そう。

ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のカンの称号を名乗り、カブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。チンギス・カンの父イェスゲイ・バアトルは、カブル・カンの孫で第3代カンとなったクトラ・カンの甥である。

チンギス・カンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジンという名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。『元朝秘史』などによると、この時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でも詳しい年代については明らかにされていない。

父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトルの称号を持つ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリルと同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大した。また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。

イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。

テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻された。幼い子供たちを抱えてイェスゲイ家の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成人してくると、モンゴルの第2代アンバガイ・カンの後裔でキヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々は、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸を舐めた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちだった。

映画でもその経緯が良く表現されていることから、史実に基づいたよりよき映画作品だったと言えるだろう。

『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンバイ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。

後にジェルメはジェベ、クビライ、スブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる重臣となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にボロクル、ムカリと共に「四駿」と呼ばれる重臣となる。「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。

メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。このことは映画の劇中でも語られている、メルキトに囚われたボルテ婦人を無事救出したものの、その体には敵部族の子を宿していることが判明する。しかしテムジンは子供を自分の子のように慈しむ心で受け入れるといった、寛容な精神に惹かれた戦士たちが続出したという場面があったが、まさしくそれこそテムジンが備えてっていた指導者としての天性の資質だといえる。

そんなテムジンの寛容さは、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。

ジャムカの元からも何人もの部下が去ったことで嫉妬したのだろう、しかしテムジンとジャムカとでは本来持っている才能が違いすぎたことで、そんな違いをまざまざと見せられて耐えられなくなったと見える。人はより優れた方へと傾倒しがちなため、この結果にジャムカは堪えたと言っていい。

1200年代の中東地域最大の帝国!

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そんな今にも崩れ落ちそうな均衡の中で事件は起きる。ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。

ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。

さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが王位を追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命した。トグリルはケレイト王国を追われてからわずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したと伝えられるが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトグリルの両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトグリルはケレイトの王位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った。この功績によりテムジンには金から「百人長」の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトグリルには「王」の称号が与えられ、オン・カンと称するにようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。

テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。

1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。

しかし同年、オン・カンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。

このオン・カンとの戦いの前に、劇中ではテムジンが中国に奴隷として売られ、数年間獄中ですごしたという場面があったが、これがフィクションで作られたものかどうかはこれを書いているときはわからないが、恐らくは事実に基づいて書いている、と思いたい。

ケレイト部を撃破したことにより、これを契機としてその後のモンゴル帝国へと繋がっていく。


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